ぼくが日記をつけ始めたのは中学二年から。それまでにも小学三年生のとき宿題で書かされて、海に沈む夏の太陽のことを書き、二重マルをもらったことを覚えています。その時は二重マルに味をしめてその翌日もまたわざわざ浜辺へ沈む太陽を見に行って、前の日と同じことを書いて、また二重マルをもらったことも記憶にあります。
中学二年の時の日記も最初は学校から強制的に書かされたものですが、その後高校二年の現在まで、一月に一度、二月に一度というようにとにかく書いてきました。でも〃日記〃というもの、"日記をつける"ということを、客観的に考えてみたことはありませんでした。ところが先日の英語の時間にWilliam R.Ingeという人の書いた「日記」という文章が英文解釈の問題に出ていました。
ぼくはこれを読んで、〃日記〃というものについて改めて考えることを教えられました。その中には大体こんなことが書いてありました。
もしある人がだれにも読まれないと確信して日記をつけるなら、はじめてその人は全くの真実を語っていることになるだろう。--- ぼくにはその意味が実によくわかります。ぼくは中学の時一度母に読まれて、その中にあまりにも恥ずかしいことが書いてあったので母を泣かせてしまったことがありました。それ以来、母は一度もぼくの日記を読みませんが、ぼくはいつも読まれはしないかと思って机の引出しのいちばん下のほうに隠しています。
それから二日後、十二月十三日の朝日新聞の朝刊に福原麟太郎さんが「日記というもの」というテーマで書いていたのを読みました。ところどころひろってみますと、ざっとこんなことです。
---日記はなんのために書くか。その時々の自分の感想をつづるといったところで大したことはない。あとで読んでもその感想が再現するというためには、かなり文学的な表現上のくふうがなければ、ただ良かった、感動したというだけでは無効な文章になってしまう…。
日記を書くという業(ごう)につかまったとでも言わなければとてもわからない。……
日記はその筆者とともに埋めてしまうべきであろう。……
ぼくほ、これも非常に興味深く読みました。ここに書き抜いた最初のところをぼくなりに考えてみると、日記はその時々の自分の感想を書くもので、そのほかにはなんの目的もないということのようです。実際そのとおりではありませんか。ぼくたち自身、なんのために日記をつけるのだと自問してみても、思ったことを書くためだという答えしか出てきません。 次に「文学的な表現上のくふうがなければ……」ということですが、このことはぼくは福原麟太郎さんに賛成できません。賛成できないというより、どんな目的からこういうことを書かれたのかわからないのです。未熟ではあるけれどぼく自身の場合を考えてみてもたとえば、ぼくはよく昔の日記帳を読み返して、思わずクスッと吹き出したり、改めてじっと考え込んだりすることがよくあります。これはその当時の感想が再現しているということではないでしょうか。それとも、こういうぼくはまだまだ"浅い"のでしょうか。
次に「日記とは業につかまって書くもの……」ということは、ぼくにはこんなことを言っているのかなあと思うだけで、その意味を具体的に述べることはできません。ちょうど俳諧の道の「句のさび、位、細み、しをりの事は、言語筆頭におほしがたし。……他は推(お)してしらるべし。」と同じように思われます。
福原麟太郎さんは、この業(ごう)のことを書く前にこういう例をあげています。英国人のサミュエル・ビープスは、奥さんに読まれたくないので自作の符号で日記を書いたという。役所の帰りに花屋へ寄って花を買ったついでに花のかげで花売娘に接ぷんしたなどと、いうことを書いておきたかったからなのだが---と。そしてどうしてそんなに符号を使ってまで苦労してそのようなことを書きつけなければいられなかったのか。……日記を書くという業(ごう)につかまっていたとでもいうほかはないと言っています。これでぼくにもいくぶんわかったような気がします。しかし、もう一つわからないところがある。
そこで、ぼくは業(ごう)ということばを調べてみました。百科事典「因果」という項に「輪回(りんね)を続けさせる原動力を業というが、業とは身体、ことば、心による行為が習慣化した時生ずる潜在的な力である」と出ています。業の正体とは、間接的な、潜在的な、縁の下の力持ちのような、リモートコントロールで飛行機を飛ばす時の手もとの機械、または電波のようなものということで表わしていいでしょうか。そうすれば「日記というものは業につかまって書くもの」ということはおまえはどうしても書かざるをえないのだ。どうしても書け! と命令する魔物というか、そういうものの俘虜(とりこ)になってしまうことなのでしょうか。いわゆる憑(つ)かれた状態なのでしょうか。
最後に「筆者とともに埋めてしまうべきであろう」ということ。
これは、ギリシャ神話の中に、ミダス王の耳はロバのように長いという秘密をどうしてもしゃべりたくて、砂地の穴の中へ耳を突っ込んでそう叫んだら、そこにはえた芦が葉ずれの音でそれを伝えたという話がある。日記もそのようなものかもしれない。とすれば、日記はその筆者とともに埋めてしまうべきでしょう。必要なことは芦の葉の風が伝えてくれる---。
たしかに、日記とはその筆者が死んだら、彼とともに埋めてしまってもよい。なぜなら、もしその日記に、これがどうしても世に出ずにいられようかというほど必要なことが書いてあるなら、それはどんなことをしても世に出て伝わっていくものだ、ということだと思います。
ぼく自身、自分のことを考えてまったくそのとおりだと思います。日記はその筆者自身にとってだけ価値のあるものなのですから。
けれども、とだれかはいうかもしれません。
「そんなものは日記に書かなくったって、われわれ自身、自分で体験しているのだから、わざわざ書く必要なんかないじゃないか」
しかし、ぼくたちの思索や知覚は、ぼくたちが想像する以上にあいまいであやふやなものです。それをもう一度文章に書き、確かめてみるとき、はじめてそれはぼくたちの生活のかてとなり、あすの前進への原動力となるのです。 日記をつけていると、うっかり見過ごしたほんのささいなことの中にも、思いがけない発見がひそんでいるものです。
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