【重松文宏氏講演内容】

咳する声もなく 耳を傾ける会場風景


手紙に井伏はこう書いている。
やっと広島空襲に関する原稿を終り、最終回を先日「新潮」へ渡しましましたので(ママ)、印刷になり次第全部まとめて読みなほしながら訂正加筆するつもりです。
作中人物は本名の人もあり、半ば実名に近い人もあり、假名の人もあり、架空の人もありますので、架空の人が出て来るところの地名は半ば架空の地名にしたらどうか。

たとへば小畠村は大畠村とか小田村とかするといったやうに。全然架空の人が出て来るのですから。また風俗習慣、お祭、行事など全く実際と違って書いてゐるのですから。

小畠村には舊来の伝統がもう残って(お祭、行事など)ゐないとのことですから、やはり大畠村とか小田村とした方がいいのではないかと思ひます。

全部まとめてみて訂正加筆しましたら私が福山へ持って行って貴方に一度読んでみて頂きたいのですがいかがでせう。

と云ふわけは、空襲以後の主人公の歩きまはった土地の名、時間などについて誤りが多すぎてもいけないので指摘(誤りを)して頂きたいからです。

その場合、新市町の宿または福山の宿においで願ってその場で指摘して頂いた方が間違ひないことだと思ひます。甚だ勝手ながら右のやうにお願ひ出来ますでせうか。それとも御都合が悪ければ御遠慮なく仰有って下さい。
     
新市の宿にはクーラーがないかもしれないので福山の方がいいかとも思ひます。もし御都合がつくのでしたら来月はいつごろが宜しいでせうか御一報を願ひ上げます。

今度の本は明るい装幀にしたいと思います。

重松の「当用日記」、昭和41年8月18日にこうある。
9時。木村さんに乗せてもらって、福山へ出た。
小林旅館で一泊。
次の日、午後5時打合せ完了。
   この後、尾道向島にあった高見山荘で、井伏とともに一泊。
   帰ってきた重松は、私に次のように話していた。
夜中2時まで、話をした。
「小畠村」は初稿どおりにした。
「二人の共著にしたらどうか」と井伏先生に言われて、「私のような素人が名前を並べては、いけません。私は資料提供者として充分です」と言った。
昭和41年10月25日に、初版本(いわゆる弁当箱)『黒い雨』発刊。
昭和46年の「当用日記」に、こうある。
5月6日(木) 夜井伏先生より電話あり。
5月7日(金) 井伏先生、午後1時過ぎバスにて来町。着物に草履。「僕は歳だから、これが最後になるかも。」角屋旅館泊。
5月8日(土) 文宏と車で福山へ。
昭和40年1月から、昭和41年9月の『新潮』に、21回の連載をして、『黒い雨』は完結した。そして昭和41年9月に、野間文学賞を受賞。昭和41年10月に、単行本が発刊された。『黒い雨』の最後の、「向こうの山に虹が出たら奇蹟が起る。…」の表現は、単行本では変えてある。昭和41年11月、文化勲章受章。
『黒い雨』は、イギリス、中国、フランス、ドイツなど、28カ国で翻訳されている。日本では、教科書に五社が収録。三和町の英語教師(AET)としてきた、アーロンさん(ニュージーランド)や、福山市のロバートさん(イギリス)は、本国の指定本5冊の中に『黒い雨』があるので、読んでいる、と言っていた。
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V.「黒い雨」の成立過程
 6.井伏から静馬にあてた書簡 (『新潮』への最終稿を) − 資料E
     昭和41年7月29日