重松は、昭和20年9月1日から、当用日記を見ながら大学ノートに書きつけた。このノートが2001年5月に初めて発見された。
中国新聞やNHKなど報道関係者が取材に駆けつけたが、
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中国新聞の杉本記者が「日章30 NOTE BOOK」と印刷された製品の大学ノートを見て、これは昭和20年のノートではないのではないか とコメント。
その後、同記者が調査したところ、戦時中、日章(現在、ジャポニカ)という会社が、このノートを製造していたことが判明。
重松は、昭和24年春から昭和25年にかけて、8月6日の事を記した「火焔の日」と、8月7日から8月13日までの事を記した「被爆の記」の、二冊を二年かけて書き上げた。
この二冊は手文庫に入れたまま、置いていた。8月14日から8月15日の玉音放送までの事を記した「續被爆の記」の執筆は、昭和34年10月から始め、昭和35年1月に脱稿。三冊を都合15年かかって、書き上げた。
重松は三冊の推敲を重ねていた。私は、書かれた、積乱雲、死体の様子、目高、ピリコ、火葬の描写に、驚いた。
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ある時、私が重松に、「すごいなあ、これはベストセラーもんでぇ」と言うと、重松は、「 … 」。一言も言わなかった。
昭和44年2月に、山陽新聞の川崎記者が来たとき、重松は「原爆を知らない孫たちに、惨状の一部を伝えたらと思って書いた。」と言っていた。